こんにちわ。タナカユウ(@tanakayu30)です。
詳しいプロフィールを観ようと思って頂きありがとうございます。
日々、「適当な記事」を「適当なタイミング」で更新している私ですが、
今回は「そんな記事を書いている私を知ってもらっちゃおう」という会です。
なので、こんな私が生まれてから現在までの人生を少しお伝えできたらなと思います。
それではいってみましょう。
簡単な経歴
関西出身→MARCHレベルの大学卒→日系メーカー→外資系メーカー
って感じです!
これからは、結構詳しくわたしの人生を解説しているので
私のことが大好きな方だけ読み進めてくださいね (☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎フォー
私はこれまでどんな人生を歩み、何を考え、これまでどんな人生を歩んできたのか。
誕生~小学校
幼稚園の年長の時、友達に誘われたことがきっかけで、サッカーを始めました。
小学校からは、Jリーグの下部組織のクラブチームに所属し、
週7日ボールばかり追いかけていました。
なので、学校の同級生と遊ぶ時間はほとんどありませんでした。
この時は、本当にサッカーに一筋で、本気でプロサッカー選手になりたいと思っていました。
本気でプロになりたかった、だからクラブチームの選考会を受けてみた
なので、夢を叶えるために有名クラブチームの選考会を6年生の頃に受けに行きました。
結果は、
ガンバ大阪のジュニアユースの選考→落選
京都パープルサンガのジュニアユースの選考→落選
この経験から「自分はプロサッカー選手にはなれないんだ。」と実感しました。
そんな夢と希望を失い、少しづつ現実を見るように、、、
そして、地区の公立中学校に入学しました。
中学校
本気じゃないと全然面白くないと知ったサッカー
サッカーを続けてはいましたが、
「自分はサッカー選手にはなれないんだ」
と思いながらの練習には面白みを感じらなくなっていました。
小学校の時には週7度練習に参加していたのに、この頃は週3程度になっていました。
この頃は、練習日でさえも「めんどくさいな。」と思う日が多かったです。
なので、何に自分の熱量を向けてよいのか分からず、
周りの友達と駄菓子屋に行ったり、
ゲームしたり、
たまに羽目を外して髪を染めてみたり、
私がイメージする「普通の中学生の生活」を過ごしていました。
怒られまくった学生生活
どの中学校でもそうなのかもしれませんが、校則がとても厳しかったです。
靴下は、黒で長いものと決まっており、
くるぶしの短いものを履いていれば即呼び出され反省文を書かされ、
お昼ご飯を校庭でみんなで食べていたら、クラスの教室内で食べるが当たり前だと怒られ、親に電話され
ガムがカバンから出てこようものなら、学年集会が開かれるようなところでした。
また、
持久走中止にさせたくて、友達とホースで水をばらまき運動場を水浸しにしてみたのですが、
先生がぶち切れ、泥まみれになりながら倍の距離のランニングを課されてしまったり
家庭科室にあるジュースを友達みんなで飲み干したら
家庭科の先生が号泣したり、
自転車通学が禁止されているにもかかわらず、自転車通学していると、
放課後自転車の前輪後輪共に無くなっていたことが思い出です。
本当によく怒られました。
環境を変えることの大切さを知った受験勉強
勉強する意味って良くわからないじゃないですか。
だから、中学2年生のころまでは一切やっていませんでした。
関連記事
→(中学生向け)学校に行く意味が分からないあなたへ伝えたい6つのこと
特にレベルの高くない地域の公立中学校でしたし、
周りにはちょっとやんちゃ目な子が多かったので、勉強している子が周りに全くいませんでした。
私の成績は学校では真ん中くらいで、2年生の終わりごろの偏差値は45程度。
定期テストは280点くらいでした。
ですが、私の属していたグループでは上位でした。
しかし、中学3年生になるとこのままだらだら日常を過ごしていていいのだろうかとい
う思いが芽生え始めたり、周りに尊敬できる友人もいなかったので、
何か今の現状を変えるため行動を起こそうと思いました。
なので、なんとなく続けていたサッカーをやめ、
地域では有名だった進学塾(馬渕教室)に入塾することになりました。
私のグループでは定期テストで200点程度(1教科40点ほど)が普通だったので、自分の事を賢いと思っていましたが、
進学塾では定期テスト450点を取るのが普通で、中には480点490点程の人が大勢いました。この時初めて、自分って頭悪いんだと知りました。
ですが、この偏差値が高い人ばかりがいる環境に飛び込んだということは良かったと思っていて、私自身は、勉強した、努力したという覚えはあまりないのですが、
なぜか、定期テストの点数は430~440程度の点数を取れるようになり、
偏差値60程度の公立高校に進学することになりました。
このことから、環境は人に大きな影響を及ぼす。ということを学びました。
高校(15歳~18歳)
リーダーシップとは何なのか考えさせられた部活
部活の方は、全然サッカーには興味なかったので、バドミントン部に入ろうと探していたのですが、
見た目が茶髪で、雰囲気がサッカー部っぽいという理由から、謎のサッカー大好き3人
組が教室に乗り込んできて、高校でもサッカーを継続する羽目になってしまいました。
一応幼稚園からサッカーを始め、中学までクラブチームでやっていたので
1年生の頃から試合に出られるなど順調な部活生活を送っていました。
そんな部活生活に転機が訪れます。
それは、「部長投票会」です。
2年生の秋頃、先輩が引退しました。
その時に私も引退しようと思ったのですが、
人生の中で、一度もリーダーっぽいことをやったことないなと思い、(生徒会長とか)
一度、部の長になってみたいという思いが芽生えました。
(謎に自分はリーダーの器の人間だ。とか思っていた時期だったので、)
しかし、部長になるには少し問題がありました。
部長になるには、部員からの過半数の票が必要だったのです。
そのため、2年生の部員(次期3年生)18人による投票が行われ、
結果、ドラマのような話ですが、「私:他の立候補者=9:9」と投票が真っ二つに割れました。
そのため、1年生の票も含めて再度投票を行うこととなりました。
私は1年生には優しく接していたので、人気がありました。
なので、投票の結果は34:14となり、晴れて48人のサッカー部部長になることが決定しました。
ただ、
「同学年の半数は私の支持者ではなかったこと」
「部長に就任した直後、足を怪我し、3ヶ月ほど試合に出られなかったこと」
が重なり、次第にまとまりの無いチームへ。
何でお前が部長なんだよ。
後輩に甘すぎんだよ。
部長が試合に出てないってどうなの?みたいな
思いっきり人に嫌われたり、
悪口を言われる経験がこれまでなかったので、あらあらと日々思っていました。
・リーダーとはどうあるべきなのか
・自分を良く思っていない相手とどう接するべきなのか、
・組織が存在する意味とは何なのか、
・人それぞれサッカー部に所属する理由が違う中で、自分の価値観でチームの方向性を決めてよいのかなど
色々考えることがあって大変だなあ。とか思っていました。
この経験から、組織の中心になって、
チームの方向を定義し、気の合わない相手を巻き込んで、人を動かすことって
本当に難しい。ということを知りました。
この経験から、政治家だったり何でもいいですが、
組織の先頭に立って行動している人に対して
当事者でもないのに、外野から悪口を言わないことを心に誓いました。
戦う場所を変えることの重要さを学んだ受験勉強
私は理系クラスだったのですが、数学以外の嫌いな勉強は一切やってこず、物理、化学
では6点、9点、13点などを連発、世界史では学年唯一の追試対象者になるほど勉強嫌い
でした。
かつ、部活は3年生の10月頃まで続けており、塾にも通っていませんでした。
また、1年間の部長生活に消耗していた私は10月~12月までぼーっとしてました。
行ける大学無いな。
そう思ったのは、センター試験の1か月前ごろ(おそらく12月前半~中旬?)でした。
けど、大学ってなんとなく楽しそうだなという思いはあったので、
理系で数学がそこそこできるという強みを活かして、入試形態を調べていると、
関関同立・MARCHの文系学部の中に、数学と英語のみで受験できるものがありました。
理系であれば、行ける大学は無いけれども、
数学は(理系クラスであったので、文系の学生よりは)そこそこできたので、
文系であれば1ヶ月くらいで英語をなんとかすればいける。となり、
短い受験勉強ですが、1カ月間は英語という科目に気合を入れて取り組みました。
結果、なんとか、関関同立・MARCHレベルの大学の1つに入学できることになりました。
理系の中で普通の数学力でも、文系の中では上位の数学力になります。
この受験の経験から、
自分の強みを客観的に観て、相対的優位の場所で戦う大切さを学びました。
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大学(18歳~23歳)
いかに大学に行かないか考え続けた大学生活
私は実家から大学まで、電車で通っていたのですが、片道1時間半ほどかかっていました。
最初の頃は大学に行くことが新鮮なことだったので良かったのですが、
その生活への慣れと、通学のめんどくささが重なりだんだんと大学に行くモチベーショ
ンが失われていきました。
結果、できるだけ大学に行かないにはどうしたら良いのかということをよく考え、以下
の事を実行していました。
・出席の必要のある授業の履修を避ける
→私立文系だったので、テストの点数の良し悪しで成績が決まるものが多くありました。なので、要出席の授業は全て不履修でした。
・外国語の単位認定
→第2言語であった中国語は週に2度も授業があり、単位がもらえる条件に5回未満の欠席というものがありました。
なので、履修免除の条件である中国語検定3級の資格試験を受け、単位認定したりしました。
・ゼミを履修しない
→私の学部はゼミに入ることが卒業条件ではなかったので、できるだけ学校に行きたくなかった私は、もちろんはいりませんでした。
全然行って無かったなあ。学校。
大学を休学し、半年間フィリピンへ
大学2年生の頃、なんとなく日常を過ごしていく内に
「自分の人生ってこのままでいいのか?」
「何かもっと自分がワクワクする時間の使い方があるのではないか?」という思いが芽生え、
今までの自分の人生と関係のない遠くに行きたくなって、フィリピンに語学留学にいくことを決意しました。
フィリピンでの日々ははじめて、日本以外の国で暮らしたり、親元を離れて生活をする
ことで「自由」をものすごく感じることができた瞬間でした。
その6カ月間では、
観測史上最大台風がフィリピンを直撃し、滞在していた寮が全壊したり、
もう2度と来ないであろう本気の勉強でTOEIC340→900を達成したり、
おねぇさんが大量にいるお店で遊びまくる体験をしました。
→(この経験から日本人以外の女性もかわいい子がいるということを学びました。)
いやあ、もっかいフィリピンで遊びたいなあ。
関連記事:「半年でTOEIC340→900」を達成したから、実施したことを伝えるよ
気合を入れて取り組んだ就職活動
就活で自分の人生が決まってしまう気がして、ここだけは力を入れてやろうと思いました。
特にやりたいことなんてなかった私は、自分の市場価値がどれくらいなのか確かめてみ
たくて、2チャンネルの就職偏差値の上から順に片っ端から選考を受けていきました。
結果、そこそこの大企業から内定を得ることができました。
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→(関関同立・MARCH向け) あなたが内定できる企業のランクを就職偏差値を使って教える
今思えばですが、
皆はゼミに入るけれど、学校に行きたくないから入らないという選択をしたり、
皆は普通に授業に出席してテスト受けて単位を取るけれど、
自分は授業に一度も行かず中国語の単位を単位認定で取得したり、
皆は4年で学校を卒業するけれど、
大学を休学して、フィリピンでぼーっと過ごしてみたりなど
人と違うことをしてみたからこそ、別に人と違う生き方をしてもいいんだ。
型にはまることが全てではないんだ。という価値観を自分の中で築けたのだと思っています。
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会社員(23歳~)
とりあえず、日系の会社に入ったのですが
何となく外資系企業で働きたくなって入社4年目に転職しました。
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最近はゆるっとふわくいきてますが、とりあえず30歳までに資産5000万築いて
かわいい奥さんと一緒にマレーシア逃亡生活を送るのが目標です。
(相手はいませんが、、)
とりあえずは、以上です。
私の人生なんて役に立つ情報なんてなにもないのに最後まで見てくださってありがとうございました。
こんな私ですが、これからもよろしくおねがいしますね!